いとおかしき糸こんにゃく
大岡屋のおやじは、不誠実な店主ではなかった。間違いなく、二枚も三枚も舌を持つ高級官僚とは異なった。
おやじは千葉の出身で、若かりし日は塗装職人だった。野丁場で足場を踏みはずし、彼の意思を腰が乗っ取ってしまうまで、一月も寝込んだ。やがてメシを食うために横浜に出て、大岡屋を開き、奥さんをもらい、店先でやきとりを焼くようにもなった。
大岡屋は子供たちの遊び場だった。即席カレーや牛肉缶詰から各種駄菓子まで、小さな店内に図書のように並んでいた。何年も売れずのままになっているのもの、もしかしておやじの目にはもう映っていないのかというほど埃のかぶったものもあった。それでも、最新の雑誌は手に入ったし、子供を楽しませてくれる駄菓子は揃っていたので、誰もが常連になった。
1993年。僕は学校から帰ると、300円ほど握って大岡屋に行くのがクセだった。
店先にアイスの冷蔵庫と並んだNEOGEOが一台あって、おやじは冷凍のやきとりをほぐしていた。僕は焼きたて一本80円のやきとりを買って、餓狼伝説2を2回、うまい棒のめんたい味を2本食べて、日々盆暮れ正月を待っていた。
春先だったと思う、僕はやきとりの串をくわえたまま、黄金のようだったNEOGEOで遊んでいた。ふと、のどが渇いて店内に入ると、布をかけられたレジの横に雑誌が無造作に置かれていた。おやじは外でやきとりを焼いている。雑誌の表紙にはこうあった。
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おやじが戻ってきて、僕の背後からこう言った。「イチカワくんも、そろそろだろ?」いつにも増して誠実な声だった。
「いや、まーまー、かな」と僕。
「若い頃は一日中だもんなあ」とおやじは言った。
僕が少し照れを見せると、おやじは更にこう言った。
「最近よくビニ本買ってくやつがよ。カップヌードル、使うんだって。笑ったよ」
カップヌードルはシーフードが僕は好きだ。もちろん、食べるのであって、使うのではない。
「1番はさあ、糸こんにゃくなんだよ。冬場なんてコタツであっためてから使ったもんなあ。いいかいイチカワくん、若いうちは鍛えておかなきゃダメだ。俺なんて、もうこのトシだろう? なかなか、盆暮れ正月にあるくらいだもんなあ。
千葉にいたころにはさあ、モテたんよ。俺。女の子何人も泣かしたもんさね。
あのこ、あのこ、名前なんだっけかなあ。髪が短くて、運動選手だったんさ。よかったなあ。あれはよかった。
イチカワくん、女の尻は小さい方がいいぞ。な。
おまえも、そのうちわかる」と、おやじは僕の目をまっすぐに見て、照れるように笑った。まるで友達の笑顔みたいだった。
僕は糸こんにゃくについて考えていた。
「ああ、思い出した! 思い出した思い出した! ユカリだ。ユカリ」と、言って一人でうなずくおやじはつくづく下品だった。
しばらく経った日の夕方、僕は母に頼まれてしょう油を買いに大岡屋に入った。誰の気配もなく、静かな店内で陳列された商品を見ていると、僕の足音だけが聞こえていた。店の奥まったところ、僅かな冷蔵商品のスペースに豆腐や納豆と並んで糸こんにゃくが売られていた。僕は店を出て、駅前のスーパーまで走った。
読んでくれてありがとう。明日も元気で!
多分僕もまた来ます。