80年代うまれ(かながわ県)

80年代うまれの思い出し日記

80年代の運動会

 青々とした空に白い舟が浮かんでいた。眺めていると、じんわりと輪郭をくずして、雲は次第におりてくるように見えたのだった。

 運動会が来るたびに、僕は運動おんちで体躯も恥ずかしい型であったのに、それでもどういうわけか、自分が城下を守る誇らしい騎士のような気持ちになったものだ。ゲームに漫画しか知らない子供だったけれど、かけっこにつけ、玉入れにつけ、そら!騎馬戦もあったし、僕がみんなのために戦っているのだと思えていた。注目されることの甘美に気づいたのだ。

 戦いの練習は順調だったけれど、本番が不安だった。どんより雲が出て、太陽がかげると、いくつもてるてる坊主を作った。こうなるとあとは祈るだけで、不意に神のことについて真剣に考え、回心したくなる。

 実際に雨が降ったこともあった。運動会は中止。なぜか体操着のまま授業を受け、その光景がおかしくて、それも悪くはなかった。家に帰ると夕飯は重箱のお弁当だった。

 運動会のお弁当は最高のものだった。三段の重箱につまった僕だけの弁当。兄や姉のものではなく、僕だけの晴れ舞台に母がつめてくれたものだった。

 サンドウィッチは大好きだ。おにぎりと同列にする諸君!! あらためたまえ! サンドウィッチはおにぎりより簡便にさまざまな味を楽しめるじゃないか。喉をするすると通る快感もある。

 からあげにはマヨネーズ。だが80年代には僕はそれをしなかった。知らなかったのだ。からあげにマヨネーズが当たり前になったのはいつからだろう。テレビメディアの仕業だろうか。

  80年代の運動会は荒々しかった。騎馬戦があったし、棒倒しがあった。組体操は厳しいものだったし、綱引きや台風の目でさえケガをするやつがいた。

 女子はブルマー姿だった。

 演目のいくつかは男女混合のものだった。台風の目もそうだった。2メートルくらいの一本の棒を男女順に並んで腰のあたりで掴み、そのまま競走するというものだ。

 途中、コースに置かれた赤コーンを台風の目に見たてて二度回転してから再び走り出すというルールだった。コースに赤コーンは三度出てくる。 

 遠心力がかかるので、4人1組の端の人間は回転の際に足が浮くほどだった。その際に僕はおおげさに慌てふためく声をだした。チームに海保さんがいたから、恋の形も80年代だった。

 今ではもう、ほとんど見ることのできない、古い運動会だ。怪我をして、手当をしてもらうような人間がいても、なんとも思われなかったのだ。 

 5歳になる甥の運動会。

 僕はデジタル一眼を手に戦場カメラマンとしてかけつけていた。たくさんの御父兄の皆様にまぎれて、甥の勇姿をとこしえに焼き付けるべく、最高の場所を探した。

 入場ゲートに甥があらわれた。演目は組体操、卒園をひかえた子供たちの成長の証として披露される、会の目玉だった。僕はお年寄り用テントの脇にしゃがみ、カメラをかまえた。絶好の位置だ。

「それでは、年長さんによる、原の子組体操です」と、アナウンスが入り、壇上にホイッスルを持った体育教師が上がった。

「全員! かまえ! 」「はい!」「入場!」「わー!!」

 立派な姿だった。腰に握りこぶしをあてて、兵隊のように甥が走りこんできた。ついこのあいだまで赤ん坊だった甥が、高い高いをしただけで泣いた甥が、息を切らして走りこんできた。

 体育教師の号令に合わせて、甥たちが飛行機やれ、サボテンやれ、ベイブリッジやれの組体操を見せるたび、僕は涙があふれた。演目がおわり、僕を見つけた甥が駆け寄ってきたところで、僕は気づいた。

 「カメラとってくれたの見せて!」

 「カメラ!?」

 

 

 

 

 


 読んでくれてありがとう。明日も元気で!

多分僕もまた来ます。