80年代うまれ(かながわ県)

80年代うまれの思い出し日記

彼女たちのラーメン屋

そのラーメン屋に初めていったとき、ラーメンにはほうれん草ひとつかみ、ネギ少々、もやし少々、わかめひとつかみ、チャーシューが二枚のっかっていた。二、三人の女性が店を切りまわしていたけど、ラーメンと合わせて頼んだチャーシュー丼がとどいたのはずいぶん後だった。

 働く女性はみなさん美人で、店長らしい方でも50代前半といったところだった。揃いのバンダナを頭に巻いて、威勢のいい、とまでは言えないけどそれなりにハツラツとした店内だった。

 彼女たちはラーメン屋でしなければならないことをこなしていた。ギョーザをギョーザ焼き機にいれて水をかけたり、チャーシューを切ったり、ワカメを洗ったりと。

 彼女たちが自分たちの仕事を楽しんでいるようには全く見えなかったけど、僕は行くたびにそれらを眺めて、ラーメンを待つ時間をつぶした。

 通いはじめて一年が過ぎたころ、ラーメンに変化はなかった。働く女性も相変わらず、無駄のない仕草で仕事をこなしていた。無駄がないから全く彼女たちの性格は見えてこない。

 二年が過ぎたころ、いつも通りにラーメンとチャーシュー丼を注文して、僕はきれいに腹におさめると、店を出て驚いた。ラーメン屋の隣の敷地が広い空き地になっていた。きれいな平らに整地されて、地面にはキャタピラの跡がついていた。

 建物の痕跡はなにもなく、かつて人の出入りもあったであろう場所には冬の風が吹いて、小さな鳥がちょこちょこ歩くだけだった。

 お店? 会社? 倉庫? 家か? あれ?

 ここ、なんだったっけ? 二年以上ここへ来てるのに? ラーメンしか頭になかったってこと? 神隠し? え? まじ、なんだったっけ?

 それから、もう五年になる。よそにできたラーメン屋に通うようになり、僕は彼女たちのラーメン屋には行かなくなっていた。が、先日、仕事の都合で彼女たちのラーメン屋のそばを通り、ふと立ち寄ってみた。

 店内に入ると、キムチの販売やチャーハンのポップなんかが増えていて、ずいぶん雰囲気が変わっていたけれ兼売機のメニューは同じだった。ラーメンとチャーシュー丼。 

ラーメンを待つ間、久方ぶりに彼女たちの仕事をながめようと思うと、バンダナを巻いたおっさんが三人。

 運ばれてきたラーメンを見ると、ネギ少々、もやし少々、わかめひとつかみ、チャーシューが二枚のっかっていた。

 ほうれん草がない!

 隣の敷地には新しい建て売りが三件並んでいた。

 彼女たちはどこへ行ったのだろう。

 

 

 

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2019年の帰り道・国道一号線

 あまりにも、あまりにも可愛らしいあまりに、毎日タバコを買ってしまうようなコンビニ娘のレジ打ちをながめて、会社の軽トラで国道1号線を1時間半かけて帰る、これが天然ものの生活だ。

 天気予報は雪がふる、雪がふると午前中から脅迫じみた予報を流していたけれど、結局どうして、いつも通りの国道1号線がつづいた。

 帰り道のわくわくがへったものだ。80年代には色々とあった。夕ご飯までのファミコン、夕方6時のアニメ、夕ご飯、7時のアニメ、8時からのテレビ、9時からのファミコン、お菓子を食べて、炭酸飲んで、ふとんでぐう。

 渋滞にはまり、駐車場のおおきなコンビニが気になる。僕は2019年のわくわくを家に連れて帰るべく、そのコンビニに寄る。

 店員さんはおっさんだ。彼は、まるでフラワーロックが音を感知して動くかのように、一瞬だけど僕に反応した。コンビニはおでんとコーヒーとあげもののにおいが混じった匂い。外では作業着姿が立ってタバコを吸って、スーツ姿はコンビニパスタをしゃがんで食べている。

 帰りがけ、前向きに停めた軽トラックの中から、僕は二人をながめた。目の前の二人はちらと僕を見る。スマホを開いて見ると、LINEアプリのアイコンに赤数字が出てるけど、僕は無視して、どうでもいいニュースを見てしまう。

 人気アイドルグループ活動休止!

 女子大学生遺体で発見される!

 ○○容疑者暴行容疑で逮捕!

 僕にはどうしようもないな、と思う。

「もしもし? 夕飯どうする? なんか買って帰ろうか?」と、仕事帰りの嫁から電話がくる。

「あー、今日はいい。食べない」

「そうなの? お酒は? あるの?」

「あー、いま買ったよ」

 ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ嫁はため息のような間を開ける、僕が自分の小遣いで嗜好品を買ったことが気に食わないのだ。嗜好品は家のお金で買え、と嫁は言う。これが嫁の愛情なのか。

 2019年のわくわくは、こうして後ろめたいニッカウイスキーとなって、助手席でゆらゆら揺れている。

 

 

 

 

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80年代の運動会

 青々とした空に白い舟が浮かんでいた。眺めていると、じんわりと輪郭をくずして、雲は次第におりてくるように見えたのだった。

 運動会が来るたびに、僕は運動おんちで体躯も恥ずかしい型であったのに、それでもどういうわけか、自分が城下を守る誇らしい騎士のような気持ちになったものだ。ゲームに漫画しか知らない子供だったけれど、かけっこにつけ、玉入れにつけ、そら!騎馬戦もあったし、僕がみんなのために戦っているのだと思えていた。注目されることの甘美に気づいたのだ。

 戦いの練習は順調だったけれど、本番が不安だった。どんより雲が出て、太陽がかげると、いくつもてるてる坊主を作った。こうなるとあとは祈るだけで、不意に神のことについて真剣に考え、回心したくなる。

 実際に雨が降ったこともあった。運動会は中止。なぜか体操着のまま授業を受け、その光景がおかしくて、それも悪くはなかった。家に帰ると夕飯は重箱のお弁当だった。

 運動会のお弁当は最高のものだった。三段の重箱につまった僕だけの弁当。兄や姉のものではなく、僕だけの晴れ舞台に母がつめてくれたものだった。

 サンドウィッチは大好きだ。おにぎりと同列にする諸君!! あらためたまえ! サンドウィッチはおにぎりより簡便にさまざまな味を楽しめるじゃないか。喉をするすると通る快感もある。

 からあげにはマヨネーズ。だが80年代には僕はそれをしなかった。知らなかったのだ。からあげにマヨネーズが当たり前になったのはいつからだろう。テレビメディアの仕業だろうか。

  80年代の運動会は荒々しかった。騎馬戦があったし、棒倒しがあった。組体操は厳しいものだったし、綱引きや台風の目でさえケガをするやつがいた。

 女子はブルマー姿だった。

 演目のいくつかは男女混合のものだった。台風の目もそうだった。2メートルくらいの一本の棒を男女順に並んで腰のあたりで掴み、そのまま競走するというものだ。

 途中、コースに置かれた赤コーンを台風の目に見たてて二度回転してから再び走り出すというルールだった。コースに赤コーンは三度出てくる。 

 遠心力がかかるので、4人1組の端の人間は回転の際に足が浮くほどだった。その際に僕はおおげさに慌てふためく声をだした。チームに海保さんがいたから、恋の形も80年代だった。

 今ではもう、ほとんど見ることのできない、古い運動会だ。怪我をして、手当をしてもらうような人間がいても、なんとも思われなかったのだ。 

 5歳になる甥の運動会。

 僕はデジタル一眼を手に戦場カメラマンとしてかけつけていた。たくさんの御父兄の皆様にまぎれて、甥の勇姿をとこしえに焼き付けるべく、最高の場所を探した。

 入場ゲートに甥があらわれた。演目は組体操、卒園をひかえた子供たちの成長の証として披露される、会の目玉だった。僕はお年寄り用テントの脇にしゃがみ、カメラをかまえた。絶好の位置だ。

「それでは、年長さんによる、原の子組体操です」と、アナウンスが入り、壇上にホイッスルを持った体育教師が上がった。

「全員! かまえ! 」「はい!」「入場!」「わー!!」

 立派な姿だった。腰に握りこぶしをあてて、兵隊のように甥が走りこんできた。ついこのあいだまで赤ん坊だった甥が、高い高いをしただけで泣いた甥が、息を切らして走りこんできた。

 体育教師の号令に合わせて、甥たちが飛行機やれ、サボテンやれ、ベイブリッジやれの組体操を見せるたび、僕は涙があふれた。演目がおわり、僕を見つけた甥が駆け寄ってきたところで、僕は気づいた。

 「カメラとってくれたの見せて!」

 「カメラ!?」

 

 

 

 

 


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前代未聞の16連射

 道路工事の削岩機! それだ! もうまさに!

僕は友だちの家にファミコンをしに行ったんだけど、ジョイカードもホリコマンダーもなしに連打してもらった。

 高橋名人16連射毛利名人はなんだったのだろう。友だちはなんと、5連射に到達していたのだ。僕は調子のいいときで4連射がやっとだった。

 高橋名人の偉大さよ!

 友だちはクラスの男子たちが憧れる夢を現実のものにした。ぷっくりとふくれた手、教室では見せない真剣なまなざし、そして友だちがボタンを速射する、小気味いい音。定規なんて使わない。

 一日三時間の練習が大切だよ。

 友だちは、さらっと言いのけた。まるで勤勉な受験生のような表情だった。中学校にあがって、三年生の時、僕は友だちと同じクラスになった。彼は学校には滅多に顔を見せなかった。いじめなどない、どちらかといえば彼は人気者でもあった。それでも不登校常連組だったのだ。

 友だちの家は公営団地の一階だった。幼い妹がいて、生意気な弟がいた。お父さんは魚屋で働き、母親を見たことはなかった。

 友だちが学校にこない理由を知っているのは僕だけだった。

 

 

 

 

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横浜の夢の国とドリームハイツ

かつて夢の国は戸塚にあった。戸塚にあるのに横浜と冠されたのは、千葉にあるのに東京と冠されたのと同じ都合だ。

 80年代うまれの横浜人たちは夢の国にお招きされたものだ。車と、家族と、友達と、ご一緒にお招きされて、渋滞を抜けて、丘陵を上がるとゲートの前に、バッキンガムの衛兵が立っていた。衛兵は日に何千人もお招きした。

 1991年3月の春休み、僕はクラスのなかよし三人組にさそわれて、四人で夢の国へいった。夏にゆけばコースターや潜水艦に乗ったし、冬にゆけば映画もスケートも楽しめた。

 僕はあらゆる期待をすべて持って、夢の国へ出かけていった。だがもう過ぎ去ったことだ、夢の国はいまや大学の敷地になってしまった。近隣の団地にはドリームハイツの名が冠されたが、いかなる都合によるものなのか、僕にはわからない。

 なかよし三人組は空中ブランコに乗りたがった、が、僕は反対だった。忘れさせてほしい。三人組の中には海保さんもいた。僕は海保さんが素晴らしいと感じていた。

 海保さん、僕はもうコーヒーカップでへろへろだったんだよ。

 空中ブランコを降りた僕は、一人でベンチに二時間座ることになった。なかよし三人組はコースター、魔法のじゅうたん、海賊船、動く観覧車とたのしんで、僕の元へ帰ってきた。

「れいち、大丈夫?」と、気づかってくれた海保さんの顔は真に夢の国のそれだった。

 そうそう、ドリームハイツの近くに、品揃えのいい魚屋がある。是非に!

 

 

 

 

 

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ウィスキー

 なんにもない日はウィスキーからだに入れて、幸せになろう。

 シングルモルトは病院の味。

 おじいちゃんのお見舞いのにおい。

 おばあちゃんのお見舞いのにおい。

大好きだった人は今も大好きだから、さみしいし、多分うれしい。

 今日の国道は混んでいたから、帰り道にセブンによって、ニッカウィスキーを買ったのだ。

 なんにもない日はウィスキーをからだに入れて、ちょっとだけ思い出したりしよう。

 

 

 

 

 

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土曜の夜の珍走バイク・パー券

ぶるんぶるんと、誇らしげに、夜のあいだ。気抜けした時代のせいか。土曜日の夜、僕はさっきから、珍走バイクの行ったり来たりの騒音を聞いている。

 日常に張りのない時代のせいなのか。珍走バイクはガスを吹かして、ファミレスの前でぶるん、コンビニの前でぶるん、交差点を過ぎていく。自らはみ出したのに、はみ出たことを時代か誰かのせいにするかのように、ぶるんぶるんと、地元の国道限定珍走

 ははあ。「少年よ、非行に走るな、親が泣く」と、中学校の裏門の立て看板に書いてある。立て看板はよく見ると、透明なフィルムでラップされて、雨風から文字を守る工夫がしてあった。

 少年よ、非行に走るな、親が泣く。

 泣く親がいる少年は非行に走らない。

 中学校の放課後、僕を呼び出した先輩に、関内で行なわれるパーティーについて聞かされた。先輩は、先輩の先輩が主催するパーティーに、先輩の先輩の知り合いのバンドが出ると言っていた。だからお前も来い、と僕に言った。券は色つき画用紙みたいにざらざらで、読みにくいにょろにょろ英語が印字されていた。

premium night / yokohama club / ¥2.500

先輩の提示した券の代金は5000円。

 僕は家に帰り、一晩中このことを考えた。ゲームも漫画も食事もままならなかった。行かなかったら、買わなかったから、僕や家族の未来に平和がなくなる。

 深夜、親のサイフから10000円を抜きとり、制服のポケットに入れた。驚いたことに、先輩は10000円わたすと、おつりをくれなかった。計算すら、なのかもしれない。

 もちろん。数日後、僕は親からこっぴどく叱ってもらった。

 ウィスキーもだいぶ回ってきた。土曜日の夜、僕はさっきから、珍走バイクの行ったり来たりの騒音を聞いている。

 

 

 

 

 

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