80年代うまれ(かながわ県)

80年代うまれの思い出し日記

砂糖水とパン

 まだ朝食について考えなしのころ、朝寝坊のために同じものばかりを食べている時分があった。母は墨田区の下町育ちで、裕福な暮らしではなかった。下町の子供たちは路地であそび、互いの妹や弟の面倒を見合って育った。1人30円と生卵1つを持って、近所のもんじゃ屋へ行く話は母の数ある100回話の中でも頻出する十八番。貧乏は働きものをつくり、裕福な暮らしはなまけものをつくる。

 学校のある朝、僕は眠たかった。7時を過ぎても布団の中にいた。あたたかい毛布は一晩の付き合いで離れられない関係になっていたし、昨夜遅くに食べたインスタント麺のおかげで空腹もない。

 「れいじ! 7時過ぎてるのよ! 起きなさい」と母。

「うああ」と僕。とにかく声を出すだけの返事をする。

「お父さんもお兄ちゃんも、もう朝食べてるんだから!」

 僕は布団からはい上がる。靴下をはいて、シャツを着て、半ズボンを履く。寝ぐせをさわる。僕は洗面所に向かった。おっと、その前にトイレへ行かなくちゃ。

「おはよう」

 父は働きもので、僕が席につくときには洗面所に向かった。食卓には、新鮮なたっぷりのレタスにこんがりとしたベーコンと半熟の目玉焼きを載せた皿を主役にキュウリとナスの漬物、昨晩の残りものなんかが並び、僕は紅茶をティーバッグで入れる。

 「パン? ごはん?」と母は僕に尋ねる。兄と姉は揃ってトーストをかじりながら、再放送のガンバの冒険を観ているところ。

「パンがいい」と僕。

「れいくん、うちらが食べてるからって、ごはんが好きなくせに」と姉が言う。

 僕はパンを2枚とって、1枚をポップアップトースターに差し込む。兄も瞬間蔑むような目で僕を見る。テレビではガンバたちが海を泳いでいた。

 焼くのはやめた。

 末っ子が兄や姉といつまでも比較されること、いつまでも追いつけない事実、それは生きた豚にナイフとフォークを突き立てるようなものです。

 僕はパンを焼かずにそのまま口に入れた。一口、二口、口の中の水分がまたたく間にパンに吸い取られ、からからになっていく。もちゃもちゃと音を立てて、僕はガンバたちの活躍も無視して乾いたパンをほおばった。

 たまらず紅茶を飲もうとするけど、カップを持つとその温度が勢いよく飲むには危険だと気づく。仕方なし、台所へ立って水道の蛇口の下に口を開けて構える。蛇口をひねると水道水が目の前を滝のように、ばしゃ、ごくごく。うぇ。

 「れいじ! あんた何やってんの?」と母。

「パン焼かないで食べたんだ。トーストしたくない。おれ、そのままがいい」と僕。

 「バカね」と、言って母は塩と砂糖のケースから砂糖のケースを取り出した。「れいじ、その小さい器1つとりなさい」と、言われるままに僕は食器棚から小ぶりの器を取り出して母に渡した。

 母は器に砂糖を大さじ二杯入れて、そこにポットのお湯を黙って注いだ。静かで、慌てず、優しさも含む母の仕草に僕は安心して任せきりだった。

 「これにパンをつけて食べるのよ。急いでるときお母さんもよくやった。けっこう美味しいのよ」

 食卓に戻ると兄と姉は食事を終え、ぼんやりと朝のわずかなまどろみとガンバの悲しい終わりの唄を楽しんでいた。僕は誇らしい気持ちで砂糖水のつけ汁をテーブルにおいて、焼かずのパンをちぎった。

 パンをひたすと砂糖水が急速に沁みてくる。ぽたぽたとしたたるところを大きな口で下からお出むかえする。と、あたたくて、あまい味わいが舌の上に広がり、パンはとろりととけるようにのどに流れていく。

お母さん、ありがとう。僕は忘れません。

 兄と姉と僕の3人は、それからしばらく、夏休みになって、ガンバたちが冒険を終える頃まで、砂糖水とパンばかりを食べていました。

 

 

 

読んでくれてありがとう。明日も元気で!

多分僕もまた来ます。